■四軒目の家庭
ティン・ティ・ロアさんのお宅
被害者のお名前は、リン・ティ・スオンさん、34歳。父は肝臓病のため2004年に死去。母は1956年生まれ。従軍期間は不明。
兄弟二人。弟さんのみ。
スオンさんは歩き始めて、しばらくしてから歩きにくくなった。左脚が痛い。左膝の関節が逆にも曲がる。座ったあとでは膝が痛い。最近デンマークの医師が来て手術を受けた。右はその手術のおかげで普通に見える。右膝は痛くない。
左は手術は難しい、とのこと。未婚。10歳の娘あり。
田んぼは母だけで耕す。弟は出稼ぎ。スオンさんはミシンで裁縫の仕事をしている。一日、5万ドンの収入。
年間600キロ収穫。年間 1,5000円ほどの収入になる。
脚の異常は、病院から診断を受けて父の従軍の影響だろう、と言われている。
月に国から 131万ドンの援助がある。
手術を受けていない左膝は、写真のように逆方向にも曲がる。痛みが辛い。
■五軒目の家庭
ファン・バン・ボンさんのお宅
■この家庭の訪問には、VAVA ( 枯葉剤被害者協会 ) や地域の人民委員会の方が7人も来られました。テレビカメラも持ち込まれ地域のテレビで放映されたのでしょうか。
人民委員会の副会長が来られ挨拶をされました。副会長のお話では、
バクザン省インゾン地区(人口 19万)だけで3,000名の被害者がいる。
戦争が終わっても被害者は絶えていない。被害者の状況を、ぜひ日本に伝えて欲しい。
こうした話は初めて聞きました。
■5番目の娘さんが障害者。31歳。成長不良、知的障害のため子供のよう。
母親が全ての面倒をみている。食事時も取れない。彼女だけ国からの認定支援あり。
■ファン・バン・ボンさん(父)
1942年生まれ。中部で従軍。1975年に帰省。8の子供。二人死亡。奥さんと一番下の娘さん家族で生活。6人生存。
5番目の娘さんが障害者。31歳。成長不良。子供のよう。知的障害。母親が全てをみている。食事時も取れない。彼女だけ国からの認定支援あり。130万ドン。その他の子には援助なし。認定なし。
一番下の息子。脚に痛み。三番目の娘。目が悪い。通院中。
父は特に障害はない。しびれ程度。直接浴びたことはない。国から月160万ドンの補助。
従軍中は枯葉剤の認識なし。霧のようなものが巻かれていたことはあり。木々が枯れていた。
父の枯葉剤に対しての思い。友達はたくさん亡くなっている。生きて帰れただけ自分はラッキーだと思っている。
国からの援助を期待している。にくい気持ちもあったが、今は毎日の生活だけを考えている。泣きながら語った。
■六軒目の家庭
お宅
■ 三人で暮らしている。母と子供二人。上の娘(父親は不明。騙された? 子供あり。19歳の子供あり)。1972年生まれ。下の息子。1975年生まれ。出稼ぎ中。
子ども達の症状は、神経系の疾患。末っ子は出稼ぎ(健在、障害なし)。娘さん。子供は三人。
父は軍で運転手。1960−70年まで従軍。2015年6月死去。枯葉剤のための皮膚がんの一種。
母は脳梗塞で動けない。ベッドで安静中。2010年に脳梗塞。左半身の麻痺。頭痛。DM、HTあり。医療費は必要。
一人あたり子ども達、月70万ドン。母への援助なし。
父の分として、亡くなってからは月50万ドンあり。家族で月あたり合計190万ドン。医療費は無料。
女性二人がベッドで休んでいる。もう一人の男の子がベッドで座っている。仏壇は今までで一番粗末。
子ども達二人の生活は、仕事はできない。学校は行っていない。家事はできる。娘が家事をしている。
液晶テレビが放送中。扇風機が回っている。居間一間のみ。
■九軒目の家庭
ネエン・バン・ティンさんのお宅
■障害者 ヌエン・バン・ティンさん 1978年生まれ 一人っ子
父 1941年生まれ 1965−71年まで従軍 帰省 ナパーム弾の被害も受ける。 体調悪く1979年に死亡。
母 ヅン・ディ・フー 1942年生まれ。関節痛、高血圧、頭痛で辛い。
田んぼのみ 母が農作業。月 123万ドンの支援。母が一人で家事、農作業、子供の世話をしている。
人民委員会の補助で3年前に家を立て直した(旧兵士会の募金で 3,500万ドン補助)。牛一頭貰ったが飼えずに売却。
子豚 二頭を飼っている。田んぼからは一年に二作で600キロの収穫。半分しか手もとに残らない。年に15,000円程度の収入にしかならない。豚は売っても4割程度の手取り。
●息子さんの病状
息子さんは生まれてから、そのまま動けず。寝たきり。前は通院もしていたが、今は連れていけない。全て母がしてあげる。食事もできない。言葉もできない。体位の変換もさせている。
母の年金はなし。夫の年金もなし。
枯葉剤の被害と聞いて、お父さんのためだろう、と思った。
母が死んだら息子さんは受け入れ先がない。親戚もいるが金銭的に余裕が無い。
地域の人が助けている。
●今回の訪問で一番悲惨な被害者家族でした。母一人子一人。地域の人の援助があるものの、母は休む暇なく毎日を送っています。
あるだけの援助金を手渡してきました。少しでも生活の足しになれば、とみんなで決めました。来年も訪問できることを祈って家を後にしました。
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