2015年10月24日土曜日

10月24日 終日被害者宅を訪問


■四軒目の家庭


ティン・ティ・ロアさんのお宅




 被害者のお名前は、リン・ティ・スオンさん、34歳。父は肝臓病のため2004年に死去。母は1956年生まれ。従軍期間は不明。

 兄弟二人。弟さんのみ。

 スオンさんは歩き始めて、しばらくしてから歩きにくくなった。左脚が痛い。左膝の関節が逆にも曲がる。座ったあとでは膝が痛い。最近デンマークの医師が来て手術を受けた。右はその手術のおかげで普通に見える。右膝は痛くない。

 左は手術は難しい、とのこと。未婚。10歳の娘あり。

 田んぼは母だけで耕す。弟は出稼ぎ。スオンさんはミシンで裁縫の仕事をしている。一日、5万ドンの収入。

 年間600キロ収穫。年間 1,5000円ほどの収入になる。

 脚の異常は、病院から診断を受けて父の従軍の影響だろう、と言われている。

 月に国から 131万ドンの援助がある。





 手術を受けていない左膝は、写真のように逆方向にも曲がる。痛みが辛い。



■五軒目の家庭


ファン・バン・ボンさんのお宅



■この家庭の訪問には、VAVA ( 枯葉剤被害者協会 ) や地域の人民委員会の方が7人も来られました。テレビカメラも持ち込まれ地域のテレビで放映されたのでしょうか。

 人民委員会の副会長が来られ挨拶をされました。副会長のお話では、

 バクザン省インゾン地区(人口 19万)だけで3,000名の被害者がいる。

 戦争が終わっても被害者は絶えていない。被害者の状況を、ぜひ日本に伝えて欲しい。

 こうした話は初めて聞きました。





■5番目の娘さんが障害者。31歳。成長不良、知的障害のため子供のよう。

 母親が全ての面倒をみている。食事時も取れない。彼女だけ国からの認定支援あり。





■ファン・バン・ボンさん(父)

 1942年生まれ。中部で従軍。1975年に帰省。8の子供。二人死亡。奥さんと一番下の娘さん家族で生活。6人生存。

 5番目の娘さんが障害者。31歳。成長不良。子供のよう。知的障害。母親が全てをみている。食事時も取れない。彼女だけ国からの認定支援あり。130万ドン。その他の子には援助なし。認定なし。

 一番下の息子。脚に痛み。三番目の娘。目が悪い。通院中。

 父は特に障害はない。しびれ程度。直接浴びたことはない。国から月160万ドンの補助。

 従軍中は枯葉剤の認識なし。霧のようなものが巻かれていたことはあり。木々が枯れていた。

 父の枯葉剤に対しての思い。友達はたくさん亡くなっている。生きて帰れただけ自分はラッキーだと思っている。

 国からの援助を期待している。にくい気持ちもあったが、今は毎日の生活だけを考えている。泣きながら語った。




■六軒目の家庭


お宅





■ 三人で暮らしている。母と子供二人。上の娘(父親は不明。騙された? 子供あり。19歳の子供あり)。1972年生まれ。下の息子。1975年生まれ。出稼ぎ中。

 子ども達の症状は、神経系の疾患。末っ子は出稼ぎ(健在、障害なし)。娘さん。子供は三人。

 父は軍で運転手。1960−70年まで従軍。2015年6月死去。枯葉剤のための皮膚がんの一種。

 母は脳梗塞で動けない。ベッドで安静中。2010年に脳梗塞。左半身の麻痺。頭痛。DM、HTあり。医療費は必要。

 一人あたり子ども達、月70万ドン。母への援助なし。

 父の分として、亡くなってからは月50万ドンあり。家族で月あたり合計190万ドン。医療費は無料。

 女性二人がベッドで休んでいる。もう一人の男の子がベッドで座っている。仏壇は今までで一番粗末。

 子ども達二人の生活は、仕事はできない。学校は行っていない。家事はできる。娘が家事をしている。

 液晶テレビが放送中。扇風機が回っている。居間一間のみ。




■九軒目の家庭


ネエン・バン・ティンさんのお宅





■障害者 ヌエン・バン・ティンさん 1978年生まれ  一人っ子

 父 1941年生まれ 1965−71年まで従軍 帰省 ナパーム弾の被害も受ける。 体調悪く1979年に死亡。

 母 ヅン・ディ・フー 1942年生まれ。関節痛、高血圧、頭痛で辛い。

 田んぼのみ 母が農作業。月 123万ドンの支援。母が一人で家事、農作業、子供の世話をしている。

 人民委員会の補助で3年前に家を立て直した(旧兵士会の募金で 3,500万ドン補助)。牛一頭貰ったが飼えずに売却。

 子豚 二頭を飼っている。田んぼからは一年に二作で600キロの収穫。半分しか手もとに残らない。年に15,000円程度の収入にしかならない。豚は売っても4割程度の手取り。


●息子さんの病状

 息子さんは生まれてから、そのまま動けず。寝たきり。前は通院もしていたが、今は連れていけない。全て母がしてあげる。食事もできない。言葉もできない。体位の変換もさせている。

 母の年金はなし。夫の年金もなし。

 枯葉剤の被害と聞いて、お父さんのためだろう、と思った。

 母が死んだら息子さんは受け入れ先がない。親戚もいるが金銭的に余裕が無い。

 地域の人が助けている。





●今回の訪問で一番悲惨な被害者家族でした。母一人子一人。地域の人の援助があるものの、母は休む暇なく毎日を送っています。

 あるだけの援助金を手渡してきました。少しでも生活の足しになれば、とみんなで決めました。来年も訪問できることを祈って家を後にしました。




2015年10月23日金曜日

バクザン省ハンディキャップ・チルドレン村にて

■今年もやって来ました。多くの子ども達が出迎えてくれました。今年は施設長さんが出張でお会いすることができませんでした。副施設長さんがお話をしてくれました。




施設の皆さんとともに。支援物質を贈りました。


 子ども達は明るく元気です。障害を抱え、決して十分な教育環境とは言えない中で、毎日を送っています。50名弱の子ども達は、この施設に寄宿生活をしながら教育や訓練を受けています。


 


出迎えてくれた子ども達。幸あれと願うばかりでした。




講堂で音楽療法を実施。爽やかな気候で助かりました。



私は別室で眼科検診を実施



被害者宅の家庭訪問



■一軒目の家庭


ラン・ティン・トゥオンさんのお宅




 ラン・ティン・トゥオンさんのお宅。真ん中の母親がトゥオンさん。

 お父さんの体調は、帰省後は骨と内蔵に痛みがあった。肝臓の病気で亡くなった。南から帰省後に1969年 結婚。子ども達 5人。障害児は三番目の子。従軍したのは、ベトナム中部ダナンの山間部で1年ほど従軍。今でも重度汚染地域。

 娘さん、35歳。今は普通の生活。

 将来のことを訊くと、母親は泣き出した。息子さんが生きてくれて嬉しい。

 村長さんが言うには、村の人たちは母親が大変なのを分かっているので、みんなで助けあっている。村は112世帯。村民数は412人。枯葉剤の被害者は、2−3軒ほかにもある。認定家族は、ここだけ。

 収入源は現在お米だけ。700平米の農地だけ。二毛作。年に600キロ収穫。余った中から年間 1万5千円 程度の現金になる。野菜、鶏を飼って生活の糧に。娘さんからの援助は難しい。




 座っているのが、76年生まれの障害を持った息子さん。枯葉剤の影響を認めてもらい、月 100万ドンの援助が政府からある。

 息子さんの医療費は、無料。言葉はわからない。喋れない。体も洗うこともできない。食事は自分でできる。行政の調査で枯葉剤の影響と判明した。自傷行為がある。他人を攻撃することはない。




■二軒目の家庭


ウェン・ティ・ロクさんのお宅




 母親はウェン・ティ・ロクさん。現在 60歳。三人の子供あり。障害児は一番下息子さん。ダウン症あり? 娘二人は正常。

 1954年生まれの父。脳梗塞のため39歳で亡くなった。1972−81年まで軍隊で働く。中部の高原地帯で従軍。その際に枯葉剤の被害を受けた模様。中部は激戦地で枯葉剤の散布も激しかった。

 86年息子を産んだ。その息子は現在29歳。生まれて間もなくから障害が出現。精神疾患のため障害。障害が一軒目の家の子供より重い。

 先月娘さんのお金でテレビとエアコンを購入。クーラーは電気代が高いので、あまり使わない。息子さんの症状は、変化なし。排便も、後始末は母親がしている。食事も自分では、できない。母親が給餌している。

 娘さんは、結婚されている。孫は健康。障害なし。

 息子と二人で生活。収穫は、お米だけ。コメは食べてしまう。田の面積は前の家の倍ある。農作業は近所の人に助けてもらう。機械化は去年から稲刈り機械化済み。機械を借りて農作業。だが道幅の問題などで手作業になりがち。

 娘さんがハノイで働き仕送り。テレビ、冷蔵庫を送ってくれた。

 政府からの援助は月130万ドン。


■三軒目の家庭


ティン・ティ・ロアさんのお宅




 障害者は、ティン・ティ・ロアンさん。1976年生まれ、女性。頭痛がひどい。40歳の兄の息子と同居。兄には二人(21歳、15歳)の息子。21歳の息子は家を出ている。

 父と母は、すでに死去。いつ死んだかもわからない。生きていれば68歳ほど。村長さんが父と一緒に従軍。

 兄も精神障害あり。頭痛がひどい。話がはっきりしない。兄は体調が次第に悪くなっている。

 兄の嫁と15歳の息子が働ける。あとは働けない。

 兄は家事はできるが、仕事はできない。

 経済的には田んぼからの収入だけ。一トン取れる。

 支援金としては、政府から本人分として131万ドン。兄79万ドンの支援金。








2015年10月22日木曜日

2015年支援の旅に出発

■今年も昨年に続いて支援の旅を決行しました。



羽田空港にて


 今年は昨年に引き続いて、10月に訪問することにしました。いままで八月の猛暑の中を訪問していたのですが、10月に訪れてみると何と快適で活動が楽かを実感したからです。


 昨年と同様に木曜日の診療が終わって、逃げるように原駅に向かいました。三島から新幹線に乗り、品川で京浜急行に乗り換え、お馴染みの羽田空港駅で下車。空港で待ち合わせました。

 大釜芙美子さん、新谷文子さん、金原さん、竹内さん、そして私の合計5名の旅です。

 大釜さんが搭乗券の手配をしてくれました。感謝、感謝です。

 さて何度もでかけてい入るのですが、無事に活動を終えることができるかどうか、いつも不安な旅立ちです。同時に、どんな被害者宅を訪れることができるのか、楽しみもあります。


■16時30分発のベトナム航空便でハノイへ向かいました。6時間かかりますからハノイ ノイバイ国際空港に到着すると、夜更けとなります。



ノイバイ国際空港にて


 空港は国際線ターミナルを新築したようで、まるで今までとは別の空港のようでした。タインさん、ホンさんとは一年ぶりの再会です。今年もお世話になります。

 さっそくバスに乗り込んでバクザン省のホテルへ直行です。